干渉する/されることについての一考察
この世で一番嫌いなもの。
私にとって、それは“人に干渉される”ことだ。
「こうしなさい」
「ああしなさい」
「こうすべき」
「こうあるべき」
子どものころからこういった指示命令が大嫌いで、
ずっと聞こえないふりをしてきた。
自分が嫌なので、誰でもそうなのだろうと思っていた。
干渉されるのが嫌なので、他人もそうされたくないだろうと、
誰に対してもなるべく干渉しないようにしてきた。
たとえ、パートナーだとしても。家族だとしても。
過度に干渉してくる人には、距離を置いてきた。
しかし、世の中は、干渉しあうことで成り立っているらしい。
職場、地域、家庭のなかで、こちらが嫌がろうが、
あるべき姿からの逸脱を許さない姿勢に毎日のように出くわす。
毎日、そうした姿勢に遭遇し、あ、来たなと身構えて、固まってしまう。
悪気はないのかもしれないが、“支配とコントロール”を感じてしまうのだ。
自分の思い通りに相手を動かしたいという欲求を目の当たりにすると、
得体のしれない気味悪さと、無力さを感じてしまう。すくんでしまう。
なぜなのだろう。
改めて考えると、私はなぜ干渉されることがこんなに嫌いなんだろうか。
もちろん、たったひとりでこの世を生きているわけではないし、人と接する毎日のなかで、干渉する/されるのは、当たり前のことなんだろうか。
もしかしたら、干渉されなくないというのは、単なる我が儘なのだろうか…。
もしかして、相手は親切心で言っていることを、素直に受け止めることができない
だけなのだろうか…。
自分に直さなければならないところがあり、
それを指摘されていると感じているのだろうか…。
つらつら思い悩んで、悶々とする今日この頃なのであった。
ボディブローのように効いてくる、“”干渉される毎日”
ちょっとつらい。いや、かなりつらいなあ。
「うるさいっ!」ってキレてみるかな。
相手がびっくりするのが目に見えるのであった。
結論:従順すぎるのだろうな、私は。
よし。今度から「うざい」と言おう。